スピリチュアルと脳の成功法則〜人生好転のテクニックの数々〜

最先端の脳科学から古代オカルトまで..「科学」と「非科学」を融合した成功法則

トランジスターラジオの開発、世界のソニーの創業とアメリカ進出

   

トランジスターラジオの開発、世界のソニーの創業とアメリカ進出
今回のテーマは、

トランジスターラジオの開発、
世界のソニーの創業とアメリカ進出

について紹介します。

前回紹介したように、

テープレコーダーの開発に
成功したことで、

井深さんのビジネスは
軌道に乗り始めるのです。

それはまさに、

ビジネスに不可欠な要素、

イノベーションとマーケティング

がマッチした瞬間だったのでしょう。

そして、そこで終わるのではなく、

ここからがソニーの快進撃の始まりです。

井深さんたちチームは、

引き続き周りの忠告を無視し、

大きなリスクにチャレンジします。

それが「世界のソニー」をまさしく
世界に名を轟かせるようになった

トランジスターラジオの
開発だったわけです。

トランジスターラジオの開発

実際裏話として、

歩留まりが5%になったとき、

ラジオの実生産に踏み切ったと言います。

つまり100個製造して
ようやく5個しか合格しない状態で

商業生産に移ったわけですから、

相当なリスクを取った判断
である事が分かります。

普通であれば、

もっと合格率を高めてから、
勝算を高めてから、、と思うでしょう。

しかし、井深さんは大きな
リスクを取ってでも、

世界で一番乗りになることを
目指したのです。

その根底には日本人の
技術力を信じていたからでしょう。

ここからソニーの会社を創立し

一気に世界戦略へと
マーケットを広げるのです。

ターニングポイントになったラジオ

一見無謀なチャレンジに
見えるかもしれませんが、

井深さんは後で振り返って

やはりここがターニングポイントであり、

世界のソニーが成功するために

正しい判断であったことを
著書で以下のように語っています。

「世界で2番になれるのは
当然である。

あたりまえの企業家だったらこんな
無茶な計画は立てるわけがない。」

「もしあの時、アメリカで
ものになってからとか、

欧州の様子をみてからこれに
従ってなどと考えていたとしたら

日本が年間500億円の輸出をする
トランジスターラジオ王国に
なっていたかどうかははなはだ疑わしく、

したがって今日のソニーも
ありえなかっただろうし、

この無謀ははなはだ貴重な
無謀だったと考えている。」

世界のソニーの創業とアメリカ進出

ここでも、国家的に
意味のあることをやる、

異なる分野の技術の融合、
すり合わせが価値を生むという、

井深大さんの発想が、

大きな成果につながったことは
いうまでもないでしょう。

トレンジスターラジオの開発が

もちろん、歩留まり5%
ということは、

価格が相当高くなることを
意味します。

そこで井深さんたちは
そのニーズを探すために、

また新たな用途を探す必要性に
直面しました。

そこで発見したのが
アメリカ市場だったのです。

日本市場だけを相手にしては
成長はできないと踏んだのです。

当時高価なトランジスターラジオを
買える消費者は、

アメリカにいると判断したのです。

まだグローバル化など世間では
全く言われていない時代にです。

そこで井深さんの相棒である、

盛田昭夫さんがアメリカに飛び
販路を開拓することになります。

盛田さんはその後、

ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカ

を設立し、

私たちの知る「ソニー」が創業します。

自らが社長に就任するとともに、

家族を連れてアメリカに
移住しています。

日本のソニーから世界のソニーへ

アジアから世界的大企業へ
発展を遂げるという意味では、

ソニーは大いなる
ロールモデルとなりました。

後にサムスン電子は、

ターゲットとした国に
自社の社員を送り込み、

現地の人たちと同じ
生活をさせながら、

地域の目利きを育成する

「地位専門家制度」

を立ち上げています。

サムスンは1990年ごろから

この地域専門家の育成に着手し、

それが新興国での事業展開を成功
させる原動力になったのですが、

ソニーはそれに30年先駆けて、

元祖地域専門家として

盛田さんをアメリカに
送り込んでいたのです。

もし井深さんが、

リスクを取らず現状に
甘えていれば、

日本の小さな技術屋さん
で終わっていたでしょう。

「世界のソニー」は

こうした大胆な発想力から
生まれたと言えるでしょう。

 - 世界的グローバル企業に学ぶ仕事術